この人すごいね、ほんと。


京極夏彦。



京極堂シリーズ第2弾の『魍魎の匣(もうりょうのはこ)』。
ちなみに、京極堂シリーズ第1弾は『姑獲鳥(うぶめ)の夏』で、この第一作からしてなんか凄いなと思ってはいた。

そもそも、俺が京極夏彦を読むことになったのは、友人の御玉(おんたま)が貸してくれたからである。
俺は東野圭吾以外の著者には疎かったし、御玉は東野圭吾をさほど読んだことが無かったしということで、お互いに本を貸し合ったのだった。
それが、京極夏彦との出会いだった。

最初に読んだ『姑獲鳥の夏』は、これがまたえらく分厚くて読むのにどんだけかかんねんと思っていたのだが、実際は平日二週間ほどで読み終わった。
読んでいると背筋が寒くなるのだが、それでいて止まらないという不思議な感じ。

で、実は『姑獲鳥の夏』を読み終わったあと、ほどなくして『魍魎の匣』を借りた。
それが今年の3月とか、そのくらい。
つまり、半年ほど『魍魎の匣』を読まずに放置していたことになる。
なぜ読まなかったかというと、あきれるほど分厚いから
定規で測ってみると、文庫本だけど厚さ4cmはあるんだな、うん。
そんでもって、1ページが上下二段構成。
面白そうだが、仕事終わって帰ってきてからどうにも読む気になれなかった。
そうこうしているうちに俺はFF12を手に入れてしまい、5月からこっちはゲームにはまってしまったと、そういうわけである。



そして、時は流れ、さあお盆休みだ、帰省だというときに、俺はこの本を読まなければいけないような義務感に駆られ、実家に持って帰ったというわけだ。

で、読み始めたわけ。
一昨日の夜から。
すると、どういうわけかどうにも止まらなくなってしまい、なんと今日の朝読み終わってしまった。
今日の朝、というのは、昨日は夜から朝まで徹夜で読みふけっていたというわけだ。

上下二段構成の約680ページ。

夜中、読んでいる途中、トイレに行きたくなったが、読んでて寒気がするような内容なので、幼児並に夜トイレが怖かった。
うちのトイレって、座敷の目の前を通らなければいけないのね。
で、この京極堂シリーズでは、京極堂は座敷を書斎代わりに使っていて、そこで何やかやと問答が行われるのね。
つまり、トイレに行くときに目にする座敷に、京極堂が座っているような気がして何か不気味なのである。(実際にそんなことはないんだけど)



そんなこんなで第二弾を読み終わったので、寮に戻ったら御玉から第三弾を借りようと思う。

あー、ほんとに堕落した日々です。

いたわる

2006年10月7日 読書
某獣使いのコマンドではございません。





結局、自分の体を労わることにした。

旅行には行かず。

旅行に行ったとしても、夜楽しめないだろうなと思ったのである。
飲む食べるが辛いし、楽しんでない様子を見せると周囲に気を遣わせてしまう。
カラオケも無理だし。

あー、綺麗なお姉さんのいる店に行ったら楽しめたかな…
でも、お姉さんに風邪をうつすのはためらわれるな(←気の遣い方が間違っている)





それにしても、最近は本も読まず、音楽も聴かずの生活だった。
この二つは、いわば心の清涼剤みたいなものだ。
特に今週一週間は緊張しっぱなしで、摂取するのを忘れていた。
というわけで、本を買いに、そしてCDを借りにちょいと街中まで出かけた。



買った本は、『素数の音楽』。
これ結構高いから手を出せなかったんだけど、そういえば使っていない商品券があったのを思い出し、使ってみた。
おかげでかなり安くゲッツ。

おっと、この本を見て固いイメージを持たないでくれたまえ。
正直言って、そこらへんの歴史モノを読むより遥かに面白い。
どんな学問にも、どんなスポーツにも歴史があるように、数学にもまた歴史がある。
この本には、例えば専門家でないと理解できないようなことばかりを書いてあるわけではなく、数学に関わってきた人々が織り成してきた人間の綾が描かれている。

他にも、『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著)なんかもそのような本となっている。
こちらは文庫化されているので安く入手できる。
興味がある方は、一度読んでみてはいかが?




次にCDを借りに。

借りたのは、スガシカオとアジカン。
実はこっち(?)方面の音楽はさほど聴いたことがないので、聴いてみることにした。
そういえば、持ってる曲は女性シンガーの曲が圧倒的に多い。
それには理由があるんだけど、そんなことしてもむなしいだけなので、そろそろ男性シンガーの曲も集めていこうかなと思っている。





最後に、車もいたわってあげようということで、車を買った店でみてもらった。

実は、運転席側のスピーカーの調子が、買ったときからおかしかった。
つまり、助手席側のスピーカーからしか音が流れず、常時モノラルになってましたと。

で、みてもらったところ、やはり運転席側のスピーカーの一部が壊れてて、その部品を取り替えてもらうことになった。
買ってからもう半年経つというのに、タダで交換してもらうことになった。

ありがたや、ありがたや。




うむ、喉の痛みはちょっとだけど引いたように思う。

明日も晴れたらいいな。

そういえば昔…

2006年9月7日 読書
東京に行ったとき、つい我慢しきれずに買ってしまった。

『東京タワー』。

文庫化されるまで待とうと思って、ずっと我慢してたのにッ…!





この本の感想を書くわけではないが、この本の中で筆者が自身の幼い頃と母親について色々と書き綴っていた部分を読んで、ふと、とある少年のことを思い出した。







―少年H―







彼は小学校の頃どんな少年だったかというと、ファミコンが好きで、兄を恐れ、三人兄弟の中ではいわゆる落ちこぼれだった。
勉強はそっちのけでガキ大将といつもつるんでおり、しかも、およそ学校の先生がよく口にするありきたりの精神論を鼻で笑うような、まさに教師の目の敵であった。

例えば、道徳の時間に先生が
「命の次に大切なものは何ですか?」
と問えば、「友達」や「家族」などといった、先生が期待している答えそっちのけで、迷わず
「ファミコン!」
と答えるような、どうしようもない悪ガキであった。
もちろん、本人は友達の大切さはよく分かっていたのだが、そんなわかりきったことを質問する先生をからかおうとして、いつもそういう言動をとるのだった。

そんなことばかりしていたから、少年の家には何度か学校からチクりの電話がかかってきた。
少年は、そのたびに両親から怒られた。




そう、両親から怒られることも、少年が最も恐れていたことの一つであった。
少年は、兄弟と比べられて怒られるのが特にイヤだった。
兄弟と遜色ないのは走ることだけで、少年にとってはそれだけが救いだった。

両親は少年をよく叱ったが、といっても父親はあまり口出ししなかった。
だから、少年は父親から殴られたことは一度しかない。





少年は母親によく叱られた。





母親が特に少年を叱るときというのは、終業式の日であった。

少年の通信簿には、5段階評価でいつも3と2しか書いてなかった。
母親はそれを見て、いつも怒った。

少年の昼飯そっちのけで少年に正座をさせ、いつも3時間ほど叱った。
少年は、また兄弟と比べられて怒られているということや、何より母親のヒステリックな怒声が嫌で嫌で、毎回泣いた。
母親が叱るのをやめるのは、父親が午後の休憩で家に引き上げてきた際に母親をなだめたときだと、相場が決まっていた。





小学四年生の三学期の終業式の日。
少年はまたしても2と3しかない通信簿をもらった。





(またあのヒステリックな声を聞かされるのか…)

憂鬱な気持ちで学校から帰る途中、少年はあることを思いついた。




次の学期から新しい学年になる。

だから、三学期の通信簿は学校に返却しなくていい。

ということは――




なんとなんと…

少年は通信簿の「2」と「3」を修正液で消し、その上に「4」と「5」ばかり書いたのである!
なんということだろう、いわゆる「偽造罪」を彼は犯してしまったのだった。
しかし、当の本人にとってはかなりの「妙策」だったのである。




――三学期の通信簿にどんな細工をしようが構わない。

どうせすぐバレるというのに、少年はその通信簿で母親を納得させようと思っていたのだった。





その通信簿を受け取った母親は、はたして少年の願望通り、何も言わなかった。

しかし、終業式の日に珍しく昼食を食べることができた少年は、全くホッとできなかった。
冷静に考えれば、まず間違いなくバレるし、それゆえ自分が通信簿を偽造したことも問い詰められるはずだった。

だが、母親は何も言わなかった。



少年は、何も言わず洗濯物をたたんでいる母親の顔をちらりと盗み見た。
母親はどこか悲しそうな顔をしていたように見えた。

少年は、そこで初めて自分が重大な過ちを犯したことに気づいたのだった。















その少年の話はここでおしまい。

なぜかというと、その少年はそれから先、それまでと全く違う人生を歩み始めたからである。
つまり、書いてもさほど面白味のないような人生を。
しかし、本人はある意味それでいいと思っているだろう。

悪さばかりして人よりちょっと目立つより、自分と周囲を納得させながら生きた上で人よりちょっと目立つことのほうが数段難しいし、やりがいがありそうだと気づいたのだと思う。











結局、少年を改心させたのは、皮肉なことに母親の沈黙だった。
『時をかける少女』。

とあることを思い出して買ってみた。
映画の影響では決してない。
そういえばこの映画、周囲では『ゲド戦記』より評判が良い。





この前の帰省での、福岡から羽田へ戻る飛行機の中で。

俺の座席は後方の窓側だった。
隣に座ったのは俺と同じ年頃の女性。
その左手の薬指には輝く指輪。



俺はそのとき、『嫌われ松子の一生』の下巻を読んでいた。
隣の女性も何かの文庫本を手にしていた。
ブックカバーがされていて、何を読んでいるのか分からない。

何の拍子か分からないけど、女性が本を手から滑らせ、俺の足の上に本が落ちてきた。
謝る女性に、拾った本を手渡す俺。

そのとき、
「失礼ですが、何を読んでらっしゃるんですか?」
と何気なく聞いてみた。

女性は、
「えっと…今映画をやってるこれです」
と答えて、表紙を見せてくれた。
それがこの本だった、という話。





ストーリーは至って単純。
ページ数も100ページちょっとですぐに読み終わった。
けれど、色々と思考させるには十分な物語で、映画化するには丁度いいなとも思わせる。



というわけで、僭越ながら、急遽ここに嬉し恥ずかし「戻りたいあの過去」「戻りたいあの場所」ランキングを垂れ流そうと思う。







「戻りたいあの過去」



5位:高校2年の夏

俺ってほんとアホやん。
余裕かましてるから逃してしもうたやん。
あのとき、なぜ一言「電話するよ」って言わなかったんかなあ。
ワイ、ぞっこんやったんやでえ……

と、意味深なコメントを残してみる。



4位:中学1年の夏

バスケ小僧だった俺。
とある試合がきっかけでバスケどころか俺の中学生活はダークサイドへ。
「やり直したい」という意味ではこれが1位。




3位:大学2年の夏

とあることから逃げ出した俺。
あの時の自分勝手な俺に喝を入れたい。
戻ってやり直したい…けれど、あの時に戻ってやり直したら、今とは全く違った人生になってただろうな。



2位:Last Winter

もうずいぶん昔のような気がする…けれど、まだあれから一年も経ってないんだなあ。
一言で言うなら、幸せをありがとう、だな。




1位:高校1年(特に秋)

多分、俺の学生生活の中で一番楽しかった頃だと思う。
あのクラスで行った修学旅行は一生忘れない。
一言じゃ言い表せない一年間だったなあ。






「戻りたいあの場所」



5位:大学の教養学部キャンパス

いやー、あの頃は若かった!
何より、俺の学生生活の中で一番女子率が高かったのはこの場所だっただろう。
(それを言うと高校時代も高かったんだけど)
あ、と言っても俺は理系クラスだったから、クラスには女子が一人しかいなかった。
でも、たいていの授業はクラス関係なかったから、ゼミなんて10人中6人は女のコだったですよ!!

文系クラスだったらもっと楽しかったんだろうなあ。



4位:六本木とか、麻布とか、あそこらへん

まったくもって感慨深い街だ、ここは。
実は、Kはここらに住んでいた。
ヒルズを見ると、レミオロメンの『粉雪』がなぜか頭の中に流れる。




3位:小学校の頃、良く遊んだ公園

俺は小学校の頃、よくお決まりの三人衆でその公園にて遊んだ。
そうだ、今思い出したが、あれは公園みたいな霊園だった。
思いっきりお墓があったし。
でも、古めかしいお墓は一つもなくて、どのお墓もピカピカで当時の俺はカッコいい!と思っていた。
その霊園は恰好の遊び場だった。
時々、レッドという犬(俺らが勝手に名づけたんだけれど)が襲来してきて、俺らはそのたびに墓石の上に避難してた。

…うむ。
ご先祖様、本当にすみませんでした。




2位:高校時代の通学路

俺の実家から高校までは8kmほどあり、チャリ通だった。
朝はたいてい7時くらいに家を出て、朝課外授業のない日にはバスケのコソ練をやってた。
一人で自転車をこいでる時は、結構大声で流行りの歌の練習をしてたと思う。

時々、歌ってる途中に誰かに追い越されて、恥ずかしい思いをしたけ。




1位:幼い頃の故郷の海

俺が幼い頃は、夏休みは毎日、兄貴や爺ちゃんと一緒に魚釣りをした。
と言っても、釣れるのはハダラだけで、釣った後は海に戻してたのだけど。
あの頃は今より水が綺麗で、堤防も今みたいに高くなくて、変な障害物もなくて、自由だった。

幼稚園や小学生低学年の頃は、よく爺ちゃんにくっついて潮干狩りに行ってたなあ。
ああー、懐かしい。
…でも、あの海にはもう戻れないんやなあ。
今日はすごく眠い。
昨晩は90分くらいしか熟睡できてない。
興奮して寝付けなかったのである。

というのも、ついに読んでしまったからである。

『容疑者Xの献身』

土曜日の夜買ってきた本のうちの一冊なのだが、文庫本が出るまでもう待てなくなり、ついにハードカバーを。



本当に、ミステリー物を読んでここまで衝撃と感動を覚えたことはなかった。
この作品はヤバい、ヤバすぎる。
著者である東野圭吾によって緻密に巡らされた罠に足を踏み入れているのが全く気づかなかった。
そして、ラスト数十ページで読者はその罠の素晴らしさに気づいただろう。
今までの東野氏のどの作品よりもグッとくる何かがあった。

衝撃と、感動と、興奮の混じりあった何かが。

嗚呼、こんなことになるなら我慢せずにさっさと買っておけばよかった。





また個人的には、湯川助教授が苦悩したところに、この作品の最大の素晴らしさがあると思う。
人間はある意味においてはノミ以下だが、それでも人間は素晴らしい、そう思える。
寮で、俺の隣の部屋のマーシーさんに借りた本。

海堂尊(たける)著『チーム・バチスタの栄光』。

東野圭吾氏の本ばかりを読んでいた俺にとっては、なかなか新鮮な一品であった。
こいつのおかげで、三日間寝不足だった。

何も起こらないような雰囲気から、白鳥の出現によって事態が目まぐるしく変わっていく様は、なかなか面白かった。


白鳥がアウトローじゃなかったらもっとすごい感動を覚えただろうな。
または、アウトローを起用しなければあんな展開には持っていけないのだろうか?



しかし、今日は想像を絶する暑さだった。

そして、この地方の夕立には恐怖を覚えた。


そろそろ6月も終わる。
ここらでまた一つ、ケジメをつけようと雷雨の中思った。

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