death and life

2006年11月25日
とらえようによっては、ちょっとネガティブな話。













最近、いじめられて自ら命を絶つ子供達が増えているそうだが、今日書くことはそれとは全く関係ない。









ふと死ぬときのことを考えることがある。

今すぐ自殺したいということは全く考えたことがないが、例えば、何歳くらいでどういう病気で死ぬんだろうな、などということは時々考えてしまうのである。
俺の場合だと、大腸ガンか心筋梗塞で死ぬだろな。
こう書いているところを、実際その病気で苦しんでいる人が見ると激怒するかもしれないが、順当にいくと、多分そうなるだろう。

しかし、何度考えてみても、病気で死ぬというのは嫌である。
とりあえず、何度も手術されるなんてまっぴらごめんである。
あ、気胸の手術はしてもらって大変感謝してるけど。

そもそもガンなんて、つきつめてみれば細胞の劣化が原因…つまり、自分の体にガタがきているわけであり、そうしてまで生きることに意味があるのだろうかと思うわけである。
細胞が分裂するときに生み出される不良品がガン細胞であるので、手術して一旦治っても再発するであろうことは容易に想像できる。
よっぽどの高齢になれば、細胞の分裂速度が遅くなるので、ガン細胞は滅多にできないらしいが。

というわけで、手術で何度も体を切り刻まれ器官を取り除かれるよりは、一生物としてガタのきた自分の体を認め、潔く散っていきたいと今のところは思っている。
これは俺のこれまでの生き方というか、俺の麻雀の姿勢にもあらわれているが、リスク無しで―つまり大した病気もせず長生きしたいと考えるならば―若い頃に不摂生しないで病気になるリスクを少しでも減らして生きてろって話だ。
もっとも、どう完璧に生きていても病気になるときは病気になるんだけどね。
若い頃色々無茶やって、それでなおかつ年寄りになって手術して長生きしようという都合のいい生き方のほうが俺には不可解なのである。
あ、それでも、気胸の手術してもらったのはありがたかったですけどね(本日二回目)。

もっとも、それだけではない。
高齢になって入院した場合、誰よりも迷惑をこうむるのはその人の家族である。
俺は、父親が曽祖父や祖母の世話をしていたのを実際に見ていたし、社会人になった今だからこそ断言できるのだが、あれは普通に仕事をしながらできるものではない。
だから俺は父親を尊敬するし、父親がそうやってある意味手本を示してくれてたから、実際父親が介抱を受ける立場になってもすすんで世話を焼くだろう。
もちろん母親にもね。

でも、だ。
俺はそういうことを例えば自分の子供にやってもらおうなどとは寸分たりとも思わない。
もちろん、「そうやって迷惑をかけてこそ家族だ」、という意見もあるだろうが、それはたぶんそういう介護の現場を見てない世間知らずが述べる綺麗事であって、俺はそうは思わない。
それに、いくら子供が大人になっても、子供にそういう姿を見せたくないと思うだろう。
それは親のエゴになるのかしら?
まだ親にすら…結婚すらしてませんけどね。

というわけで、俺個人の現段階での希望としては、安楽死がやっぱり一番かなあと思うのである。
安楽死をするためには、現状ではイギリスやオランダなどに渡らなければいけないが、少なくとも、自分の家族の手を煩わせることなく死んでいきたい。
まさしく、眠るように死んでいきたい。
好きな音楽を聴きながら。





かたや一方で、俺は死ぬのが怖い。
それは、苦痛とかそういうものとは別の次元の恐怖で、自分という存在が消えてしまうのが怖い。
正直言って、死んだら俺のこの精神はどこに行くんだろうと思う。
「君の精神は、きっと君の子供達に受け継がれているはずさ」なんて、メルヘンチックな言葉は聴きたくない。
俺の精神は俺だけにしか育まれず、俺が子供を授かったとしても、その子には俺とは全く違う精神が育まれる。
そう思う。
大体、俺みたいなちょっと頭のイッテる奴の精神を受け継ぐのなんて、子供からしてみたら大迷惑に決まってるんですよ。

もし死んで精神が肉体から解放されて、宇宙空間を自由気ままに旅できるとしたら、俺は喜んで死を受け入れるだろう。
そしたら太陽の内部まで見にいくことができるし、流星と一緒に旅ができるかもしれない。
あ、それこそメルヘンチックな考えだな…まあそれは置いといて。
死んだら俺の精神はどうなる?
俺としては、突きつめれば、そこ。それ。
そこが死の曖昧な部分で、同時に一番のネック。

一応、俺としては、死んだら大体こうなるんだろうな〜というのがある。
それは、気胸の手術で睡眠薬の点滴をうたれたときのことである。
睡眠薬が体内に入ると同時に、俺の名を呼ぶ医師の声が聞こえなくなり、次に気がついたのが12時間後。
その、医師の声が聞こえなくなったまさにその瞬間が、死んだ瞬間に似てるんだろうなと思う。
何をされても起きないし、夢も見なかった(覚えてないだけかもしれないが)。
その、一切が自分と隔絶された時間の中、俺は何の苦痛も感じなかったが、同時に俺は何の思考もしていなかった。
外界からと内部からの切断。
これは結構死に近いのではないかと思う。

となるとやはり結論は一つで、死んで燃やされたら人間灰になるだけ。
物理的にも生前の自分ではなくなるし(骨が残るだけ)、精神にも消去されてしまう。
これはもう、そういうものだと割り切って死なないとだめなのかもしれないな。




俺が一番最初に人間の死を間近で感じたのは、祖父の死だった。
それは後々の俺にとって、かなり理想的な死に方になった。
祖父は、農業の仕事の途中、ビニールハウスにビニールを張っている途中、心筋梗塞で死んだ。
心筋梗塞なので、もうどうしようもない。
心臓が休みたがっていたのだからね。

その死はあまりにも突然で、一緒に仕事をしていた父も、何が何だかわからなかったらしい。
誰にも何の遺志も残さず、祖父は逝った。

しかし、そんな死に方をしてくれた祖父に俺は感謝している。
中学生だった俺はそのとき、人間の死は、日常の一部であるべきであるということを教わった。
今日書いたようなことも、それ以来ずっと考えてきたものだ。
だから、決して、わざと大仰なメッセージを残そうとするものではなく、普段から少しずつ分け与え、教えていき、すっと消えるのが理想的な人間の死なのだと自分では思う。
祖父からは多くのことを教わった。
それは死ぬ間際に教えることのできる量ではない。



死は生の対極にあるものではなく、生は死に内包されるものである、と誰かが言った。
理論記号で書くと、「生⊂死」なわけだ。
その言葉の意味は頭では分かる。
なるほど、素晴らしい表現だ。
だけど、まだそこまで達観できていない自分がいる。
もし今後何十年かかけてその極みに到達できるのならば…それだけで、生きる意味があるというものだ。

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