今日二回目の日記。
「お前暇だな」という目で俺を見ないでいただきたい。
どうせ徹夜だしね、今日は…
十月に入ってから、何か良い香りがするのは気のせいだろうか。
何かの植物のとても良い匂い。
田舎を思い出させる、そんな匂いだ。
そしてこの匂いは、幼い頃の記憶へ俺を誘う。
実際に俺を知っている人は驚くかもしれないが、4歳くらいまでの俺はいわゆる肥満児だった。
今は痩せてるけどね。
で、結構太ってたもんだから両親(特に母親)は心配し、幼稚園の頃は毎日母に散歩に連れ出された。
少しでも体を動かさせてスリムにさせなきゃ危ないわ、とでも思われたのだろう。
夕方、母が食事の準備をする前に、家のすぐそばにある長い堤防を一緒に(半ば強制的に)散歩した。
おっと、ここで(4歳のガキの頃の記憶なんてあるわけないだろうがよ!)と思わないでいただきたい。
幼稚園あたりの記憶なら少し残っている。
それは、物心がつくというのとは全く別のことである。
その堤防は、台風の時にテレビでよく見かける陳腐な堤防ではなく、巨大な土手と言ったほうがいいだろう。
幅5m、高さ10mくらいあると思う。
それで、季節ごとに生えてる植物が変わり、十月というか、秋が深まるとやはり良い香りが立ち込めるのである。
母は虫や植物にやたら詳しかった。
ヤンチャな年頃だった俺は、やはり動くもの(つまり虫)に対しては興味を持ち、すぐに詳しくなった。
だが、植物には全く興味を持たなかったので、母が
「これがオミナエシよ」
「これがオオバコよ」
などと解説してくれても全く覚えなかった。
春と秋に、春の七草と秋の七草を覚えこまされたが、すぐに忘れた。
おそらく、この良い匂いを放つ草もしくは木の名前も教えてくれたかもしれないが、当然覚えていない。
もっと、ちゃんと聞いておけば良かったな。
そして、やがて小学生になった俺は、もう母と散歩をすることはなかった。
おそらく、幼稚園の年長組の頃には、俺は十分スリム(笑)だったはずだ。
が、その代わり俺を待ち受けていたのは散歩ではなく、堤防をジョギングしてこいという母からの指令だった。
その堤防は、端っこ(実は、その”端っこ”も馬鹿長い堤防の途中に過ぎないのだが、なぜだか端っことして認識していた)からご親切にも500m、1km、1.5km地点に目印として木が植えてある。
それで、俺の家は丁度500m付近にあり、小学1年の俺は”端っこ”まで走って往復してこい、と言われた。
つまり、往復1km程度か。
走るのは、やはり夕食の前だった。
とは言え、走るのは俺だけではなく、兄と姉もだった。
俺が小学1年の時、兄は4年生、姉は5年生で、彼らは一旦”端っこ”まで走った後、家から一番離れた木まで行き、そして家まで走って帰ってきていた。
大体3kmくらいかな。
高学年だから3kmということらしかった。
(ただし、その頃は二人とも部活に入っていたので、走るのは休日だけだったが)
それを知った俺は、学年なんて上がらなければいいのに、と思ったものだった。
そして、たった1kmだったが、それはとても苦痛だった。
しかし今思い返すと、俺は小学校まで(5kmくらい)毎朝走って登校していたので、実際は1kmなんて楽勝だったに違いない。
ただ、遊ぶ時間が少しでもなくなるのが嫌だったのだ。
そういえば、二月になると俺が通っていた小学校では持久走大会なるものが催されたが、俺ら兄弟はいつもトップだった。
なぜなら、夕食前に走っていた堤防が、実は持久走大会のコースだったからである。
(土手は普通の道路とは違って少し大きめの砂利、というよりも石が敷き詰められているため、慣れているときつさが全然違う)
しかも、1・2年生は1km、3・4年生は2km、5・6年生は3kmで、やはりあの木々を目印として折り返してくるのであった。
初めての持久走大会の時、その事実を知って愕然とした。
ら、楽勝じゃん…!
(というか、持久走大会で走る距離よりも、学校からその堤防まで歩いてくる距離のほうが長かったのが何だか可笑しかった)
母はどうやらやり手のトレーナーだったようだ(笑)
この前の八月に帰省した際、久々にあの堤防に登って少し散歩してみた。
堤防はコンクリートで補強され海側の壁がさらに高くなっており、潮風が遮られてかなり暑かった。
小さな子供だと壁で視界が遮られ、海を一望できまい。
ガキの頃、毎日あの海と夕日を見ながら走れた俺は、今考えると、きっと幸せ者だったんだろうな。
「お前暇だな」という目で俺を見ないでいただきたい。
どうせ徹夜だしね、今日は…
十月に入ってから、何か良い香りがするのは気のせいだろうか。
何かの植物のとても良い匂い。
田舎を思い出させる、そんな匂いだ。
そしてこの匂いは、幼い頃の記憶へ俺を誘う。
実際に俺を知っている人は驚くかもしれないが、4歳くらいまでの俺はいわゆる肥満児だった。
今は痩せてるけどね。
で、結構太ってたもんだから両親(特に母親)は心配し、幼稚園の頃は毎日母に散歩に連れ出された。
少しでも体を動かさせてスリムにさせなきゃ危ないわ、とでも思われたのだろう。
夕方、母が食事の準備をする前に、家のすぐそばにある長い堤防を一緒に(半ば強制的に)散歩した。
おっと、ここで(4歳のガキの頃の記憶なんてあるわけないだろうがよ!)と思わないでいただきたい。
幼稚園あたりの記憶なら少し残っている。
それは、物心がつくというのとは全く別のことである。
その堤防は、台風の時にテレビでよく見かける陳腐な堤防ではなく、巨大な土手と言ったほうがいいだろう。
幅5m、高さ10mくらいあると思う。
それで、季節ごとに生えてる植物が変わり、十月というか、秋が深まるとやはり良い香りが立ち込めるのである。
母は虫や植物にやたら詳しかった。
ヤンチャな年頃だった俺は、やはり動くもの(つまり虫)に対しては興味を持ち、すぐに詳しくなった。
だが、植物には全く興味を持たなかったので、母が
「これがオミナエシよ」
「これがオオバコよ」
などと解説してくれても全く覚えなかった。
春と秋に、春の七草と秋の七草を覚えこまされたが、すぐに忘れた。
おそらく、この良い匂いを放つ草もしくは木の名前も教えてくれたかもしれないが、当然覚えていない。
もっと、ちゃんと聞いておけば良かったな。
そして、やがて小学生になった俺は、もう母と散歩をすることはなかった。
おそらく、幼稚園の年長組の頃には、俺は十分スリム(笑)だったはずだ。
が、その代わり俺を待ち受けていたのは散歩ではなく、堤防をジョギングしてこいという母からの指令だった。
その堤防は、端っこ(実は、その”端っこ”も馬鹿長い堤防の途中に過ぎないのだが、なぜだか端っことして認識していた)からご親切にも500m、1km、1.5km地点に目印として木が植えてある。
それで、俺の家は丁度500m付近にあり、小学1年の俺は”端っこ”まで走って往復してこい、と言われた。
つまり、往復1km程度か。
走るのは、やはり夕食の前だった。
とは言え、走るのは俺だけではなく、兄と姉もだった。
俺が小学1年の時、兄は4年生、姉は5年生で、彼らは一旦”端っこ”まで走った後、家から一番離れた木まで行き、そして家まで走って帰ってきていた。
大体3kmくらいかな。
高学年だから3kmということらしかった。
(ただし、その頃は二人とも部活に入っていたので、走るのは休日だけだったが)
それを知った俺は、学年なんて上がらなければいいのに、と思ったものだった。
そして、たった1kmだったが、それはとても苦痛だった。
しかし今思い返すと、俺は小学校まで(5kmくらい)毎朝走って登校していたので、実際は1kmなんて楽勝だったに違いない。
ただ、遊ぶ時間が少しでもなくなるのが嫌だったのだ。
そういえば、二月になると俺が通っていた小学校では持久走大会なるものが催されたが、俺ら兄弟はいつもトップだった。
なぜなら、夕食前に走っていた堤防が、実は持久走大会のコースだったからである。
(土手は普通の道路とは違って少し大きめの砂利、というよりも石が敷き詰められているため、慣れているときつさが全然違う)
しかも、1・2年生は1km、3・4年生は2km、5・6年生は3kmで、やはりあの木々を目印として折り返してくるのであった。
初めての持久走大会の時、その事実を知って愕然とした。
ら、楽勝じゃん…!
(というか、持久走大会で走る距離よりも、学校からその堤防まで歩いてくる距離のほうが長かったのが何だか可笑しかった)
母はどうやらやり手のトレーナーだったようだ(笑)
この前の八月に帰省した際、久々にあの堤防に登って少し散歩してみた。
堤防はコンクリートで補強され海側の壁がさらに高くなっており、潮風が遮られてかなり暑かった。
小さな子供だと壁で視界が遮られ、海を一望できまい。
ガキの頃、毎日あの海と夕日を見ながら走れた俺は、今考えると、きっと幸せ者だったんだろうな。
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